2013年4月10日水曜日

朝鮮高校「無償化」除外問題が「試金石」であってはいけない


 USMは近年加速する朝鮮学校弾圧の流れに抵抗しようという意思を持つ愛知の日本人・在日朝鮮人有志のネットワークだ。朝鮮高校を「無償化」対象外とするため、政府は2013年2月20日付で省令を「改正」し、同時に申請中の各校を不指定とした。法廷闘争に突入したことによりさらなる継続的で広範な支援が必要となる一連の「無償化」除外問題について、「広範な支援」のために没歴史的に語ることによって日本の歴史的責任を不問にしてはならない、ということを焦点に、以下を提起する。

歴史的にみれば、日本政府には植民地支配による被害の原状回復義務として、在日朝鮮人の民族教育の権利を保障すべき歴史的責任と義務があるにもかかわらず、むしろ朝鮮学校を徹底して弾圧し閉鎖させ、現在まで一貫して民族教育弾圧を展開してきた。無償化問題は、戦前戦後一貫した日本の朝鮮人弾圧の歴史の流れに位置づけられるものであり、この歴史的観点を抜きに在日朝鮮人の民族教育の問題を語ることはできない。これは何度も確認しておかなければならない議論の土台である。

一方、いわゆる「リベラル」の視点から、「無償化」除外反対論において、「日本の度量・寛大さが試されている」といったロジック(2010年9月5日付朝日新聞社説「朝鮮学校無償化、日本社会の度量を示そう。速やかに実施を。」、2013年3月13日上野千鶴子Twitter @ueno_wan「教育はもともと未来への投資。日本社会の寛大さが問われています。」〈後に自ら削除〉)が見受けられるが、朝鮮高校生の就学支援金受給はそもそも法的な権利であり、不当に侵害されてはならないものだ。無償化制度を適用するという当然の対応が在日朝鮮人に対する日本の積極的な「功績」であるかのように語ることは問題であり、ひいては日本の加害の歴史に対する清算責任放棄を隠蔽する土壌をつくるものになるといえる。あくまで無償化の適用は、差別的取り扱いのマイナスをゼロにすることにすぎず、さらに遡及適用とその損害の賠償がなければゼロにすらならない。

また、「無償化」問題が俎上に載せられる過程で、自治体の補助金まで凍結される事態が相次いでいるが、自らの歴史的責任に言及することなく、「度量」を示すものとして在日朝鮮人の権利を「付与」するという言説は、自明の「権利」の問題であるはずの在日朝鮮人の民族教育権の問題を、日本の「度量」や「裁量」の問題にすりかえる危険なロジックである。

そして、「無償化」除外反対の擁護論として「『北朝鮮』の問題と朝鮮学校の子どもたちは関係ない」という主張もよく目にするが、確かに「拉致問題」「核実験」の責任を子どもに問うのは筋違いではある。しかし、「諸問題」を理由として日本政府が日朝国交正常化交渉を棚晒しにしたうえ、「制裁」まで行なっているのはそれが植民地支配責任から逃避として利用できる格好の材料とみなしているからであって、制裁の対象の問題ではなく、制裁政治パフォーマンスこそ批判しなければならない。また、「関係がない」という主張に関して注意が必要なのは、朝鮮学校はすなわち朝鮮民主主義人民共和国の学校ではないという含意がある場合、殊更にそれを強調し関係がないことによって正当性を主張しようとすることは、定住外国人としての在日朝鮮人の祖国との紐帯を分断しようとする暴力でもあるということだ。在日朝鮮人が祖国=朝鮮と関係があれば問題なのだろうか?

これは橋下大阪市長などの「北朝鮮や総聯との関係を完全に断てば補助金を支給する」というロジックの裏表である。祖国との関係をもつことは徹底して外国人の権利であって、干渉できるものではない。「反日教育」批判にいたっては、明確な他国・他民族に対する教育干渉であり到底許されるものではないし、干渉しうると前提しているのは払拭されない宗主国意識の現われではないか。また、祖国や総聯との関係を断つことで、在日朝鮮人を「難民化」させ、支配しようとする当局の欲望が垣間見える。こうした弾圧が繰り返されるのは、在日朝鮮人がただ「エスニックマイノリティ」だからではない。日本の歴史的犯罪を告発してやまない「政治的存在」であるからこそ、弾圧するのである。在日朝鮮人のその歴史性、政治的主体性をこそ奪おうとしている。

また、朝鮮民主主義人民共和国は、日本政府に対して植民地支配責任を果たすことを要求し、また、在日朝鮮人の民族教育を支援してきた国家である。その意味で徹底して「反日」である。しかし、だからこそ「反日」には普遍的意義がある。「反日」という言葉で拒否反応を示して思考停止するのではなく、その内実としっかりと向き合うことこそが今、求められている。

在日朝鮮人は、日本の民主主義(そんなものがあったのかどうかは疑問であるが)の「試金石」として存在しているのではない。「無償化」除外問題の本質である歴史性を無視したままでは、「無償化」除外問題がたとえ解決されたとしても、第二、第三の「無償化」除外問題を引き起こすことに繋がるのではないか。朝鮮(人)に対しては何を言ってもいい、というような空気感の中で、政府は「国民の理解」を口実に堂々と差別・弾圧を行っている。日本人一人ひとりのあり方が今、厳しく問われている。
(インパクション189号初出 2013年4月5日 インパクト出版会)


※愛知・朝鮮高校生に対する就学支援金不支給国家賠償請求訴訟のお知らせ

第一回期日・4月16日(火)14時~、名古屋地方裁判所 1号法廷
(傍聴希望者多数の場合抽選。13時30分までに地裁前にお集まりください。)
・・・弁護団長と原告2名の意見陳述と訴状要旨陳述(予定)

終了後、弁護団による報告集会。15時30分~@アイリス愛知
傍聴できない方も、是非ご参加ください。原告(学生)を応援しましょう!

2 件のコメント:

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  2. 非常に説得力のある論考だと思いますが、「高校無償化」と「朝鮮半島情勢」を切り離して考えることは大前提としても、「東アジア、朝鮮半島の非核化」に対しては絶対に引き下がるべきではないと思います。それは教育現場においても取り組むべき課題です。北朝鮮の核兵器保有は、韓国、日本の核武装化にも繋がります。現在の東アジアの政治状況と、「核保有国」「原発大国」のアメリカと中国を直接的な背景にした、日朝韓3国の潜在的な「核開発競争」は、この間の北朝鮮の核兵器保有化、原発開発により現前化し、今までの歴史問題や日朝国交正常化、南北統一問題などとは次元が異なってしまったと思います。本来であれば、日本が率先して、東アジアの「非核化」を提唱すべきですが、そうならないことが残念でなりません。

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