今年は2002年小泉訪朝時に発表された日朝平壌宣言から10年の節目の年です。平壌宣言から10年を経たいま、どのような視点から日朝間の問題と在日朝鮮人に対する差別・弾圧政策を問うていかなければならないかを改めて考えたいと思います。
直近の問題として、2010年の制度開始から2年半が経過した現在も高校無償化法(就学支援金制度)の対象から、朝鮮高校へ就学する生徒が除外されたまま「審査継続中」とされている問題について、世論は「朝鮮学校は『北朝鮮』および朝鮮総聯の関係団体であるため支給対象から除外すべきであり、朝鮮学校を除外するためには新たな『理由』を作り出しても構わない」というムード一色に染まっています。世論が排外的かつ差別的な空気によって醸成され、“ムード”によってこのような在日朝鮮人に対する差別が行われてしまっていることは批判されるべきなのは今更確認するまでもありません。
しかし、そういった世論に対抗するための言論自体も、世論に対抗しようとすればするほど徐々に植民地主義や同化主義といった外国人を支配対象とみなす方向に傾いてしまっていることを指摘しておかなければなりません。つまり、「朝鮮学校は反日教育をしていない」、「朝鮮学校は多言語教育やグローバル人材の輩出をおこなっており日本の国益につながる」、「朝鮮学校の生徒も普通の高校生、わたしたち(日本人)と同じである」といった対抗言説は、すなわち「日本の国益につながる、『準日本人』であれば『恩恵』の対象にすることもやぶさかでない」と言っているに過ぎません。裏を返せば「反日で、日本の国益に繋がらず、同化することのない異質なものであれば排除しても構わない」と言っていることになります。
この2年半あまりの間、多くの人々が朝鮮学校無償化除外問題に対する意見を述べ、それを見てきましたが、進歩的な立場を取ろうとしている人でさえも、在日朝鮮人を異なる立場と価値観を持つ尊重すべき他者としてではなく、“わかりやすさ”を求め、わからないものへの不信感、日本への同化や帰順をせまる強迫観念、異なる価値観との共存を前提としない排他的な価値観を否定できていない意見を述べてしまうといった場面がまま見られました。
在日朝鮮人の権利が、マイノリティの権利として、日本の少数民族のアイヌや沖縄の人々と同列に語られることもありますが、ここで忘れてはいけないことは、在日朝鮮人は、日本におけるアイヌや沖縄の人々などの少数民族とはまた異なった立場であり(もちろん少数民族が介入や支配を受けて良いというわけではなく、現状日本においてはアメリカのマイノリティ同様、“多民族国家日本”の枠組みに包摂されている事実があるのに対し、在日朝鮮人は祖国を持つ存在である)、日本の内部の”少数民族”の扱いとして日本によって直接的に介入されるべき対象ではないということです。※1。
民族教育を受ける権利も、どのような教育を行うか決めることも、どちらも民族的権利であり自主権です。そもそも日本政府が民族教育機関の教育内容を“審査”すること自体が不当であるにもかかわらず、それを不問にしながらも「朝鮮学校は日本の国益になる」などの論を基盤にした「定住外国人の権利を認めるかどうか」という論議が行われることは、すでに民族の自主権を侵害していることが見過ごされています。このような状況では、在日朝鮮人の“権利”に関する議論が、“恩恵”を施すのかどうかという度量の問題にすりかえられてしまいます※2。外国人の権利が日本のシステムへの利益還元の度合いによって左右されたり、国家および国家に自己を投影している人々のさじ加減で決めたりできるという幻想を抱いている以上、日本は植民地支配の精神性を克服できていないといえるのではないでしょうか。差別や排外に対抗しているはずの側が植民地主義や同化主義を採用してしまいやすいことは、日本が敗戦後植民地支配と戦争・戦後責任を放棄したまま現在に至ってしまったことと無関係ではありません。
日本は敗戦後の戦後処理において、アジア諸国に対する「お詫びの気持ち(95年村山談話)」を示す一方で、教科書からは次々に植民地支配や侵略戦争に関する記述が改悪・削除され、閣僚や知事、首長が歴史を修正し被害者を侮辱するような発言を行なっても野放しにされるなど、本来の意味での真摯な謝罪と反省は行ってきませんでした。そして、賠償・補償金ではなく途上国支援の経済協力金、独立祝賀金といった名目の、いわば金にものを言わせる形で、自らの加害責任をごまかしてきました。
そのような流れの中で、朝鮮民主主義人民共和国との“関係正常化”は、日本の植民地支配責任問題にいかに向き合い謝罪と賠償を行うことができるか、という日本にとっては最後に残された機会でした。しかしながら、その最後の機会も従前通りの経済協力によるごまかしの手法を踏襲する形で発表された日朝平壌宣言により失ってしまいました。植民地支配を「痛切な反省と心からのお詫び(02年日朝平壌宣言)」の気持ちを持って振り返るのならば、謝罪と賠償を行うこととあわせて植民地主義から脱却しなければならないのであって、間違っても経済制裁や在日朝鮮人への弾圧政策を推し進めるべきではありません。
また、平壌宣言に謳われている日朝国交正常化に関しても、日本国家と日本人自身の主体的な脱植民地主義の過程において“正常化”がなされるべきであり、朝鮮高校の“無償化”除外問題における「国益か否か」というような、自らの利益のみを主眼とした議論と同じ形でなされるべきではありません。
日本での議論は常に「試されるべき・変わるべきは朝鮮の側」であるかのような認識が当然のようになっていますが、高校“無償化”除外問題も日朝国交正常化や植民地支配問題も、主体的に問題に向き合い、加害の清算と現在まで続く歴史的な責任を果たさねばならないのはあくまでも日本の側であるということを今改めて確認しなければいけません。
日本の植民地主義は現在まで克服されることなく一貫して継続しているということ、そして“わたしたち”はその歴史の継続性のうえにいる責任ある当事者であるということをしっかりと認識し、ごまかしではない本質的な議論がなされない限り、関係の”正常化”がなされることはないでしょう。
(T・S)
※1 梶村秀樹「定住外国人としての在日朝鮮人」『思想』1985年第8号、23頁。
※2 崔権一「在日朝鮮人社会と運動に対する攻撃の本質~朝鮮学校対する弾圧から見えてくるもの」『社会評論』2012秋、80頁。
留学同中央「権利と恩恵」『コチュカル通信』280号。